「好きを貫く」ことの大切さと難しさ

3月半ばに日本のネット上で話題の中心になったブログ・エントリーがある。
『web進化論』著者で、はてな取締役「梅田望夫さん」のエントリーだ。

当該記事直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。より以下引用

二十歳にもなれば、その人のすべてはもう顕れている。その自分の良いところを見つけるには、自分の直感を信じ(つまり自分を信じるということ)、自分が好きだと思える「正のエネルギー」が出る対象を大切にし、その対象を少しずつでも押し広げていく努力を徹底的にするべきだ。そういう行動の中から生まれる他者との出会いから、新しい経験を積んでいけば、自然に社会の中に出て行くことができる。「好きなこと」と「飯が食えそうなこと」の接点を探し続けろ。そのことに時間を使え。
ネット空間で特に顕著だが、日本人は人を褒めない。昨日もLingrイベントで言ったけど、もっと褒めろよ。心の中でいいなと思ったら口に出せ。誰だって、いくつになったって、褒められれば嬉しい。そういう小さなことの積み重ねで、世の中はつまらなくもなり楽しくもなる。「人を褒める」というのは「ある対象の良いところを探す能力」と密接に関係する。「ある対象の良いところを探す能力」というのは、人生を生きていくうえでとても大切なことだ。「ある対象の悪いところを探す能力」を持った人が、日本社会では幅を利かせすぎている。それで知らず知らずのうちに、影響を受けた若い人たちの思考回路がネガティブになる。自己評価が低くなる。「好きなことをして生きていける」なんて思っちゃいけないんだとか自己規制している。それがいけない。自己評価が低いのがいちばんいけない。
僕だって君たちを見ていて、悪いところとか、足りないところとか、たくさん見えるよ。でもそんなことを指摘して何になる?
それでもっと悪いのは、ダメな大人の真似をして、自分のことは棚に上げて、人の粗探しばかりする人がいることだ。そうすると利口に見えると思っているかもしれないけど、そんなことしている暇があったら自分で何かやれ。


My Life Between Silicon Valley and Japan:直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。

以前『「半分からっぽのコップ」と「半分水が入ったコップ」』という記事でも述べたと思うが、僕は基本ポジティブに自分の人生を生きているつもりだ。

そんな僕には、この梅田さんが書いたエントリーは今更ながら、とても嬉しかった。

今まで多少なりの不安を感じながら、左右や後ろを振り返りながらも、少しずつ歩を進めて来た自分の道が、梅田さんのエントリーを読むことによって、あながち間違ってはいないと自分自身で確信出来たからだ。


少なくとも梅田さんのエントリータイトルである「直感を信じろ」、「自分を信じろ」、「好きを貫け」という3要素に至っては、今までの人生の岐路に直面した度に僕が信じて来たことだ。
それらを意識して生きることは当たり前と言えば当たり前の話なのだが、実際そのように生きるには現実的に考えると結構難しく、得てして数少ない選択肢の中からの妥協点を探して生きていくことの方が多いように思う*1
しかし幸か不幸か、僕のこれまでの人生は自分の望むようにはこれっぽっちも転ばなかった(笑)。ただ、先に挙げた3つの要素だけで軌道修正を図っては、自分の道を作って現在に至っている。
大袈裟に言ったら「ネガティブに考えたらどうしようもないような人生」だったからこそ、ポジティブな思考で乗り切って来たと言おうか(笑)。極端に言うと「直感を信じ」、「自分を信じ」、「好きを貫く」以外には、人生を切り開く手段も方法も何も持ち合わせていなかったという事だ。


だから個人的に尊敬している梅田さんが、ネット上で生の声として発したこのエントリーがとっても嬉しかった。素直に心に入って来た。


人の粗探しをする人間ではないけれど、人を褒めるタイプでもないので、その辺りはこれからの僕の課題でもある。


そして先日。2006年度最後の日。3月31日に2週間ぶりにこの件について梅田さんからブログ上でレスポンスがあった。
投稿されたエントリー「好きを貫く」のはそんなに簡単なことではない。意識的で戦略的でなければ「好きを貫く」人生なんて送れないよ。より以下引用

人生の幸福とは「好きを貫いて生涯を送ること」だと僕は思っている。「好きを貫いて生涯を送ること」は素晴らしいことだ。人からどう見えるとか、他人と比較してどうこうという相対的基準に左右されるのではなく、自分を信じ、好きを貫く人生を送ること。本当の幸福とは、そういう心の在り様にこそあると、僕はそう信じているから、若い人達に、そんなに簡単に「好きを貫く」ことを諦めてほしくない。でも「簡単だから、やってごらん」なんて言ってるわけじゃない。

「好きを貫く」というのは、「好きなことをしてただ漠然と時を過ごす」とか「嫌なことをしないで安逸な時間を過ごす」ことを言うのではない。それとは対極にある「厳しい意識的で戦略的な営み」を長く継続してはじめてたどりつける世界である。「好きを貫く」ことに意識的で戦略的でなければ、きっと流されて「好きを貫く」ことから遠ざかっていってしまうだろう。でも天才でなければ追求できないというほど、とんでもなく難しいことじゃあない。意識することがまずは何より重要なのだ。

「何が好きなのか」という根源的な問いに答え続けようと努力することがまずあり、「好き」が見つかったと思ってもそれを極めていくのは時間がかかるし大変なことだし、その先で「それで飯が食えるのか」という難しい現実と折り合いもつけなければならない。その上、いつ自分の「好き」が変わっていくかもわからない。「好きを貫く」には、「好きを探し続け」、「好きを極め」、「必要なら軌道修正して新しい「好き」を極め」「好きで飯を食えるようになってサバイバル」しなければならない。

「直感を信じろ」「自分を信じろ」というのは、信じるに足る直感を磨くべく真剣に生きていることが当然の前提になるわけで、それさえできなければ「好きを貫いて生涯を送る」なんてできるわけない。「人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ」というのは、そのくらい自分の「好き」に関わることに没頭し続けて行動しなければ「好きを貫く人生」なんて送れっこないからだ。

僕はよく対話や文章の中で「サバイバル」という言葉を使う。サバイバルとは何か。「何からのサバイバル」を自分はいつもいちばん意識しているのだろう、と旅をしながら考えていた。やりたいと思えないこと、嫌なことをすることで、いちばん貴重な資源である「自分の時間」を失うこと、損なうこと。それからのサバイバルだ。

やりたくもないことをやり続けて一生を送り、それで仮に裕福な生活を送ることができても、僕にとってそれは「サバイバル」ではない。そんな人生は絶対に嫌である。そうだそうだと共感する人も多いかもしれないけれど、意識的で戦略的でなければ「好きを貫く」人生なんて送れないよ。

「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」と多くの大人たちは言うだろう。「好きなんてことは忘れて、いまの社会で通用する人間になれ・・・」というような言葉を日本の若者たちはシャワーのように浴びているのだろう。むろん「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」というのは、全体としては正しい。たしかに、甘いもんじゃなく難しいことなのだけれど、「好きを貫いて生涯を送る」ことを目標にすべきだと僕が信ずるのは、難しさに挑戦するだけの価値がある「素晴らしい人生」だと思うから。「難しいから諦めろ」と言うにはあまりにももったいないと思うからだ。


My Life Between Silicon Valley and Japan:「好きを貫く」のはそんなに簡単なことではない。意識的で戦略的でなければ「好きを貫く」人生なんて送れないよ。

元々凝り性で好きな事に対してはとことんのめり込む性格の僕は、以前兄に「そんなに好きな事に没頭出来るのなら、お前は職人か何かになれば?」と言われたことを思い出した。


音楽が好き。歌が好き。絵が好き。写真が好き。文章が好き。自分の気持ちや思いを外に向かって表現するのが大好きだ。
自転車が好き。二輪が好き。それは、風を感じながら自由に好きな場所へ移動出来る乗り物だからだ。

だけど今の僕は何よりもwebが好きだ。webでつながる世界が大好きだ。
自分の気持ちや思いを表現しながら、刺激的な風を感じ自由にwebの波を漂い好きな場所へ行けるから。


今の僕はwebの世界で好きを貫きたい。



「好きを貫く」



改めて心に響く言葉だなと思った。



2007年度4月のスタートにあたって。
自分自身にこのエントリーを捧ぐ。

*1:もちろん、そうでない人生も僕はたくさん知っている