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僕が日本の文化や精神から得た大きなヒント

久しくweb上で文章を書く、表現するだなんてご無沙汰で、再開早々かなり濃い密度で書き連ねているけれど、どうぞ時間のある方はお付き合いの程よろしく。

昨日のエントリーとの関連のお話を少々。

親しくしてくれてる人ならご存知でしょうが、ここ数年来、僕は日本文化や「和」の精神に非常に興味があり、心惹かれている。

それはなぜか?と言うお話。

昨日のエントリーでも書いたけれど、僕は日常の中で、いやでも自然環境や生態系に考えを及ぼさざるを得ない生活を過ごしている。
このままの生活を続ける事がはたして良いのだろうか?と自問自答するも、かと言って、今の生活水準を下げて環境に配慮した暮らしが今すぐ出来るかと問われれば、誠に恥ずかしながら、即答でYESとは言えない自分がいる。

結局、この心の内にあるもやもやを整理して言葉にすると
『現代の物質的な「物」に偏りすぎた豊かさに対する疑問』
とでも言えば良いのだろうか?

毎日二輪に乗りガソリンを消費し二酸化炭素とオイルを撒き散らし、また12時間以上PCに向かい電力を消費し、地球上の限りある資源を人より消耗している人間が惜しげもなく言う事ではないとの批判はあると思う。

ただそんな僕も、ひょんな事で辿り着いたこの国の文化や精神から大きなヒントを得た気がしたのだ。

日本の国土は小さな島であり、決して多くの資源もなく、貧しい国であった。
そして、日本文化、和の精神と言うのは、この国の風土に適した形で形成されて来た為に、元来、非常に合理性、融通性を持ってる。


具体例を挙げると例えば、家屋。
それぞれがドアで分け隔たれ独立した部屋の集まりである西洋建築の家屋と違い、日本家屋はふすまや障子をはずしたりはめたりすることによって、部屋の大きさや形を自由にできる利点がある。もちろん日本の高温多湿の気候に適しているのは言うまでもない。


例えば、鞄(カバン)と風呂敷。
鞄は一定の形と大きさがあり、入れるものの範囲はふろしきよりも限られ、また小さいものを入れたからと言ってそれに合わせて小さくはならない。
一方、風呂敷は形の大小にしたがい包むので非常に柔軟性がある。


例えば、はんかちやタオルと手ぬぐい。
はんかち、タオルの用途以外に、手拭いはかぶり物、鉢巻(バンダナ)、布巾と多用途であり、切りっ放しゆえに手で簡単にちぎれ、包帯や鼻緒の代用にまで使える。


ぞうりやわらじ、下駄などは、誰の足にでもたいていは間に合うように作られているが、靴ではそうはいかないし、特に左右を履き替えると言う融通は全くない。


立体的に裁断された洋服と、反物を合わせた平面からなる着物。どちらの方がよりたくさんのサイズを用意しなければならないだろう。


ここで述べている内容は、別に西欧の文化より日本の文化の方が優れていると言いたい訳ではない。それぞれの国にはそれぞれの気候や風土の中から生まれた独自の文化や精神があり、それに則った生活がなによりも環境に負担を強いらないのではないかと思うのだ。

もちろん、昨日述べた「人間が地球上で生命活動をする以上、必ず何らかの環境が破壊され、生態系のバランスが崩されて行くという事実」には何ら変わりはないけれど、極力それを必要最小限に心がける義務が我々にはあるのではないか。

合理性、融通性とは話は変わるが、農作物、海産物を主流とする和食と、文明開化以降進んだ肉食を中心とした洋食では、近年明らかにされつつある人体に与える影響等を考えると食生活においても風土や人種に適した食事と言うものの在り方を考えてしまう。


ただし、僕がここで言いたいのは、今すぐ現代生活、西欧風文化生活を捨てて150年以上昔の暮らしを模倣しようというものではない。そもそもそんなことは不可能だ。

ただ、普段何気なく過ごしている日常にほんのちょっとのエッセンスを入れる。
それが大事なんじゃないか。

エッセンスとは、例えば別に洋服を着ながら、風呂敷を持てと言うような事ではなくて、生活する上で日本文化や「和」の精神について意識してみる。選択肢に入れてみると言う事だ。
そう言った生活から取りあえず初めてみるのは、とても有意義な事だと思う。


「和」の精神について僕の意見は、また別の機会に述べようと思う。